ハイデガーとは関係ない話。続き

なぜ関係ないかというと、ハイデガーに関する例の本は大して読み進めていないから。
前回は、独我論相対主義に陥りそうだといったが、まあこれは当然のことだ。なんたって、相対主義独我論というのは誠実には*1反駁不可能だからだ。
しかし、だからといって、そちらに安易に転ぶのも癪だ。ちょっとは科学的思考ができる、と私は自負しているが、科学的に議論を進める第一歩は議論している対象の性質を調べることのはずだ。「宇宙」──この場合は「私」、もしくは私の「内面」、「内面世界」を含まない「外界」のことだが──とは何か、少なくとも存在論における「宇宙」とは何か知るにはまず、「宇宙」の存在論的議論における性質を洗い出さねばならない。「存在」を知るために「存在者」の性質を知りたかったようにだ。それが「宇宙」の定義となる。あるいはこれを<宇宙>と呼ぼう。
たいした議論を経ずとも、現代思想にかぶれた中二病経験者なら、<宇宙>が「私」を基盤とする、つまり「私」の経験の中にしかないものだと結論付けると思う。では、<宇宙>⊂「私」なのか?
いや、「私」の定義をしていなかった。いろいろな議論が有るだろうが、「私」は独立した存在とは思えない。われ思う、故にわれ在り。この身体や感情、もしくはクォリアは「私」の一部ではない。「私」が「私」を「私」だと感じるのは、すなわち、これは「私」だと言える最少の、しかし必要十分な単位は、「私」を「私」だと思っている思考に他ならない。この「私」は「私」が認識、あるいは経験するところの<宇宙>に依存したものではないとでも言うのだろうか? そんなわけはない。「私」の思考というのは、より物質的に言えば、遺伝と環境、すなわち「外界」により与えられたものだ。自由意志が存在するなどという戯言を抜かすつもりは無い。
であれば、「私」と<宇宙>との関係はどうなっているのか。まだ十分に考えていないが、「私」=<宇宙>ではないかと考えている。これを<私>と名づけ、<私>=<他者>=<宇宙>という、自分で書いていてどこのカルト宗教だと思ってしまうようなことを、私は言いたいのだ。
さすがに怪しくなったので、それなりにまともに聞こえるかもしれない日本語に直そう。「<私>とは<私>が認識する対象と同義であり、<私>が認識する対象の一部、すなわち<他者>も<私>が認識するところの<他者>が認識しているもの、すなわち<私>が認識しているもの、ひいては<私>と同義である」。…やっぱり怪しい。

*1:自分に可能な限り希望を廃して論理的に議論すれば…という程度の意味。「論理的に反駁不可能」という語はより狭い意味で使用したい。