ハイデガー

久しぶりに哲学に少し触れたくなって、

を買ってきた。原著 (の翻訳) を買う元気も時間も無いです。ウィトゲンシュタイン関連の本も読んでみたい。
ハイデガーといえば「存在」云々だが、この問題には昔から興味があった。だいたい、物理学を志した大きな理由のひとつが、「なぜ<存在>は存在しうるのか」という疑問によるものだった。物理学にイコールの答えがあるわけではない、とは思っていたが、そもそも、<存在>の対象物である「存在者」を知らない限り<存在>に踏み込むことは出来ないと思ったわけだ。「<存在>の存在」というのはつまり、こういうことだ。

宇宙は「存在」する。つまり、宇宙という名の「存在者」は存在する。なぜ存在するか。神を基礎においてみたり、科学で語れる部分以上は語らないか、もっと小難しいことを言うかは勝手だが、まあ、そういう言説はどこでもあるわけだ。しかし、存在が<存在>する (「存在者が」ではない) のを不思議に思う…という言説はそれほどありふれていはいないと思う。「存在」があれば「不存在」もある。宇宙は有るか無いかのどちらかなのだから。だが、「有る」、もしくは存在するという状態、または「無い」、つまり不存在という状態、それ自体が<存在>するのは、<存在>しうるのはなぜだろう…ということだ。

ちょっと例を挙げればいいかもしれない。「宇宙は存在する」もしくは「存在しない」と表明することを考える。「表明する」のを「事実そうであること」の代わりに考えているわけ。例えば、「存在する」または「しない」と「書く」には紙が必要だ。つまり、「紙」が「宇宙が存在する」あるいは「存在しない」ことを成り立たせている。「紙」がそもそも無ければ、宇宙は「存在する」ことも「存在しない」こともできない。反対に、紙の存在が宇宙の存在の<存在>基盤となっている。

別の例で言うと、ここにりんごが存在するかどうか…というとき、りんごが「無い」のは、りんごという「存在物」の不存在を意味している。では、そもそもこの宇宙の数理構造が、あるいは論理構造が、りんごの存在を許していなかったらどうだろう? りんごが存在することがこの宇宙においてなんらかの背理法によって矛盾することが示されるとしたらどうだろう? これが、不存在すら<存在>しないという状態に近い。反対にりんごの存在が矛盾を生まないという事実がりごの存在の<存在>基盤となっている。

これが知りたかった、もしくは納得したかったわけ。なにかハイデガーにヒントが有るかもと甘い期待。

今はこの疑問にこんな感じの中間帰結になっている。宇宙、というか存在者はそもそも存在しているのか。私が死ねば、私は無となる。「死ぬように寝ていた夜」は起きても、時間の経過以外は私にとっては存在しなかったと言える。起きるまでは、「その夜の前日」も私にとって存在しない。もし目覚めることが無かったらどうか。「死んだ後の世界」は私にとって存在しない。それどころか目覚めなければ「死ぬ前の日々」も存在しないのだ。つまり、ここでgblogを更新している私も、そしてこの瞬間の世界、存在者も、実のところ存在していない。一時的にすら存在していない。「私」が存在の<存在>基盤になっているようにも見える。独我論か安易な相対主義に転びそうだ。その「私」も当然ながら存在者の一部だ。あるいは一面、と言った方がいいかもしれない。
<存在>基盤(宇宙)=「私」⊂宇宙
なんて自己充足的なコトができるのかどうか…なんて中二病なことをほざいてみた。



ラカンあたりが『「知」の欺瞞』で批判されていたことがあるが、なんだか、ラカンも理解できる気がしてきた。元は社会学等々の対象であったものがボース・アインシュタイン凝縮する…というような勉強を大学4年でやっていると特に。