お買物など

国立民族学博物館で特別展示「インド サリーの世界」を見てくる。綺麗ですね。良いです。好きなデザインのもの多数。
そして梅田でお買物。ちゃんとした、トレンチ風(?)コート。@MORGAN HOMME

歴史と数学、または理系と文系との対話

今日、このような議論になった。文系の人が「数学(もしくは物理学含む?)がわからない」と言うときと、理系の人が「歴史/国語がわからない」というときには、それは根本的に違うのではないか? つまり数学は、小学校、または中学校からの積み重ねの一部でつまづいてしまうと、まったく分からなくなる。ちょっと調べたくらいでは、まったく理解できない。一方、理系の人が例えば「歴史がわからない」というときは、少し調べれば良いのであって、ただの怠惰ではないか、と。
一つの問題は中学/高校での教育にあるのではないか、と思う。現在の数学教育は、基本的な事項から、順に進み、最終的に微積分に辿り着くことを目標にしているように思えるが、これがそもそもの間違いではないか、ということである。これでは、「途中脱落組」は敗者復活が効きようがない。そうではなく、証明等はとりあえず放っておいて、数学の各分野の各論を、生徒のニーズに合わせて展開すべきではないだろうか。例えば、多様体とは一体何か、公理的集合論とは一体何か、といった具合に。証明を軽視することに対して、理系な人からは反感もあろうが、では、高校数学でε-δ論法*1を使っているとでも言うのだろうか? 興味を持った者が証明に手を出せば良いのだ。大体、大学以降で数学を使う人は、厳密な数学を大学で1から学び直しているのだ。*2 数学の各分野は繋がっている。順番に勉強していく必要があるとは、とても考えられない。もちろん、教師の負担は大きいだろうし、大学入試は変革せねばならないだろう。しかし、学校で習ったことくらいは、概略を知りつつ人生を送れるようにすべきではないだろうか。
数学の証明を順に追っていくことは、歴史の授業で言えば、現在の歴史観がどのように形成されたかを説明することに対応すると思う。上の議論をするならば、歴史の授業も大きく変わる必要がある。「現在の歴史観」を勉強するだけでなく、その成立過程も勉強するのである。これが、理系と文系との歩み寄りであろう。
しかしながら、そもそもの前提となった問いに疑問を投げかけることも出来る。歴史では良い例が思い浮かばないが、国語であれば、それほど難しくない。そもそも、「文学の解釈」という、国語の重要な一部分は、数学程に論理的なものではないかも知れないが、大きな体系をなしている。そして、これは「途中でつまづいた者」が敗者復活出来る分野であろうか? 小学校からの国語の授業で、文学の解釈につまづいた者は、少なくないのではないか? 「体系をなしている」という点で言えば、外国語も同様である。中学時点での英語につまづいた者が、大学の英語の授業についていけるであろうか? これは飽くまでも、問いである。私は結論はまだまだ出せる段階にない。

*1:数学の「極限」の概念を厳密化したもの。理系の大学生が最初につまづくところ

*2:文系の人は知らないと思うが、高校数学は大学では全くと言って良い程役に立たないと、私は考えている。多くの人が、1から勉強し直しているのだ