主人公は僕だった

今日、映画『主人公は僕だった』(原題:``STRANGER THAN FICTION'') を観た。最近、派手なSF映画より、ヒューマンドラマのようなものを好むようになった。ヒヨったな。そろそろフランス映画に手を出すべきかもしれない。これもそういう一本。評価としては「まあまあ」。

(追記:しばらく、感想らしき感想すら書いていないので、早いとは思うが、帰ってすぐに書いてみた。ネタバレには早いとの批判は甘受する。また、邦題は正直ひどいと思う。原題は良いのに…)


以下、ネタバレ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓

上でも書いたが、一言でいえば「まあまあ」の映画だった。「悪くはない」が、名作というわけでもない。
こういうのは当り前で、これを映画の中で言ってしまっているからだ。主人公の人生はある小説家の書いている物語そのものなわけだ。この事実を知って、小説家は物語の結末を書き換える。元のままだと主人公が死んでしまうからに他ならない。結末を変えたことで、主人公は死ななかったが、小説自体は「名作」から「まあまあ」のものになってしまった…と作品中で語られている。
ということは当然ながら、映画のストーリー自体、その小説と同じく、(主人公が生き長らえたことにより) 「名作」ではあり得なくなってしまった。惜しいことをしたものだ。
もちろんそう簡単ではなく、劇中劇が面白くなかろうが、たったの120分なのだから、アイデアが良ければいくらでもみられるものとなる。しかし、この映画には致命的な欠点がある。おそらく元の (主人公が死んでしまう) ストーリーでも、名作とはとてもいえそうにないということだ。
小説家の行動を見るに、死ぬ (もしくは瀕死になってしまう) 場面までは、元のストーリーどおりらしい。確かにここまではとても良い。主人公の内面の描きかたはうまいと思うし、「ギターのシーン」はクライマックスにふさわしい。このあたりは「名作」の匂いを漂わせる。だがしかし、主人公の死に方があまりにあまりなのだ。伏線を回収したふりをしているだけ。
ということは、主人公が小説の主人公 (ああ、わかりにくい!) だという設定は飽くまで寓話的なものであると考えるのが自然だろう。「そうなのだ」という意味以上のものがあるわけではなく、元が「名作」かどうかは関係ない。
この仮定の元で重要になるのは、映画のプロットやその演出のインパクトだ。まず演出には満点をつけたい。特に冒頭等の画面効果は、「小説の語り」というコンセプトに合致するかどうかはともかくとして、鳥肌ものだった。
プロットはどうだろう? 途中までが良いのは上でも言った。では、この映画がこの映画たる所以。すなわち、「結末が書き換えられる」あたりなのだが…。残念ながら…としか言いようがない。
結論をいえば、主人公は死ぬべきだった。主人公、教授、小説家、皆少しだけどこか「狂気」に近い場所に住んでいる。すくなくとも「トゥルーマン・バーバンク」ではない。だが、結局物語は「小説家の改心」という言葉でしか説明できない終わりかたをしてしまった。全ての人物造型がおいてけぼりになってしまった。元の小説は「皮肉」な終わりかたをしたらしいが、皮肉どころか、本当に「トゥルーマン」になってしまっていたのが残念である。
せめて、最後に死んでしまえば、教授の発言に引っかけて、「誰もが死ぬが、記憶には残る」というのを地でいった (寓話化した) 話として称賛できたのだが、消化不良気味。